日差しは徐々に暑く僕の肌を焼き、次第に汗を生み出した。
暑いからだけで汗は出るけれど、それ以外にも、冷たいから汗が出る事もあるのだろう。
背中を伝う冷え切った汗が気持ち悪かった。
その感覚に寒気すら浮かぶ。その感覚に吐き気すら催す。
日の照りつける公園にいるのは、僕と、目の前のジャケットの男だけだった。
僕は訳も判らずに佇んでいたけれど、一つだけ判った事がある。
――知っているのだ。僕はこの男を知っている。
全てを取り上げられても微かに残る記憶の中で、何かが合致したのだ。
パズルのピースが全て綺麗に形になった。造形が全て綺麗に収まった。
だから《気味が悪い》のだ。
なぜピースが組み立てられたのか、その理由が判らない。肝心な理由が判らない。
偶然に構成されてしまったその形は、僕の頭の中を壊してゆく。


「あ……なた……は?」

「罪深き少年よ、なぜ世界に生きる」

「あなたは……誰ですか」


知っているのに知らないと言う恐怖。
知っているのに判らないと言う恐怖。
知っているのに思い出せないと言う恐怖。
肝心なところが抜け落ちている恐怖。

僕の背中に伝う汗が、嫌な温かさを持ち始めた。
肌と触れる面から僕の体温を吸収し、それらが意思を持ち始めているようだった。
蠢き出す汗が這いずり回る背中と記憶。
この目の前の男は――一体何者だ。

黙っている僕に、彼は視線で物事を語りだした。
答えなさいと言っているようにも思えるし、答えなくても良いと言っているようにも思える。
何が言いたいのか伝わらない目線に、僕は少なからず恐怖を抱いている。
まだ身体の痺れが取れないままだ。動けないままだ。


「少年よ、なぜ生きる。なぜ生きたいのだ」

「生きたいと思うのは、普通だから」

「……そうか」


その短い質問に、どれほどの思いと思惑が込められているのだろうか。
僕にはその深い思考が読み取れない。どこまでも暗い闇を覗いているようで、おどろおどろしさしか感じられない。

男は僕の言葉に冷たい声色で返事を返すだけで、顔色一つ変えなかった。
冷静冷徹であるように見えるし、その心に潜む赤い情熱を抑えているようにも見える。
つまり、簡単に言ってしまうと判らないのだ。何もかも。

背筋は湿っていて気持ちが悪いと感じるのに、唇がどんどんと乾いていく感触が脳に伝わってくる。
全身を駆け巡る血液が徐々に凍っていく。
心と身体、全てが冷やされていく。
まるで、目の前に立ち、僕をその瞳で断罪し、追い込んでいくように。

男は声色も変えずに、新しい問い掛けを僕にした。


「少年よ、生きていて良いと思うのか」

「……」

「この罪にまみれた世界で、生きていて良いと思うのか」


断罪されている。断言出来る。僕は断罪されている。
この男は処刑人なのだろう。僕を追い詰めて切り裂く。
冷たい物言いは、処刑人と裁判官の両方の性質を併せ持った生き物にも見えた。

何が何だか判らない。
目の前で何が繰り広げられているのか、何が行われているのかが理解出来ない。
彼は僕を断罪している。それは随所から溢れ出して来る刺々しさで感じ取れるのだが、その続きが判らない。
なぜ、どうして、僕を追い詰めているのか。

僕の口内は完全に枯渇した。
枯れ果てたそこは水を欲している。
僕は何を口走っているかも、もう判らなくなっていた。


「……僕は――」


何かを言いかけて。
何かを言おうとしていたのは判るが、何を言おうとしたのかは判らない。

しかしその枯渇した閉鎖空間は、第三者の悲鳴のようなものであっという間に壊された。


「うああああああああああああああああ――ッ!!!」


突如、僕の目の前にいた男の前に何かが突っ込んで来た。
突っ込んで来たのは人間だと理解したのは、ジャケットの男が体勢を崩し、後ろに倒れそうになっている瞬間だった。
世界がスローモーションのように動きの速度を落として、停止するのではないかと思うほどに凍り付いてゆく。

凍てついた世界に飛び込んで来たのは、紛れもなく人間だった。
僕の目の前の停止した世界に映ったそれは、黒い髪をした少年。
何かを泣き叫びながら、崩れ行く男に何かを叫んでいる。
その音声を聞き取る事が出来なかった。
世界は音声を遮断し、静寂を放って動かなくなっていた。
少年の唇が歪む。
何かを泣き叫びながら、地に伏せ始めた白髪の男の襟首を掴んでいる。
力を込めて前後に振るう。
どこかの不良少年のように、殺気で溢れかえった大きく見開かれた瞳。
そこから零れ落ちる涙は、日差しを浴びて輝いている。
水晶のような透明感を纏ったそれが、とめどなく溢れ続けている。

止まりかけた世界は、少年の大きな悲鳴を孕んで更にスピードを落とす。
そして、ジャケットの男を、少年が力いっぱい突き飛ばした。
彼の身体が弓のようにしなり、宙を彷徨うようにその世界に飛んだ。 優雅に、空を舞う蝶のように。
その刹那だった。

男の身体が弾け、破裂したのだ。

彼の身体は青い霧になり、空中に散布されたのだ。
それは砂漠の砂のようだった。
青、青、青――幾重にも重なった青が、散華のように宙に投げ出された。
空に放たれたその青が、一斉に上空を求めて羽ばたく。
僕にはその光景が、異様で仕方なかった。

それらが全て蝶だからだ。

けたたましい笑い声、不愉快な声、ガラスを割ったような甲高い音。
蝶は羽ばたきながら、耳障りな音を立てて飛ぶ。
それらを全て巻き込んで、青い蝶は、不気味な翅を羽ばたかせて天に昇ってゆく。
気持ち悪い、胸の中を弄られているような、酷い焦燥感と辛い悲壮感が身体から溢れてくる。
そして世界は一気に加速した。


「返せ! 返せ、返せ! 返せ、返せ、返せよッ!!!」


スピードを上げた世界で、少年は声を枯らしながらその言葉を繰り返した。 少年は喚きながら、その青い蝶の散華たちに叫ぶ。
地団太をする子供のように、真剣に何かを訴えかけるように、必死で後悔するように、咽を崩壊させながら叫んでいた。

それは、呪詛。
取り憑かれたように、同じ言葉を何度も繰り返していた。
激しい怒りを何にぶつけたら良いのかも判らず、ただ蝶に汚い言葉をぶつける。
悲鳴にも似た叫び、嗚咽にも似た言葉。


「あああああッ!! うああああああッ!! 返せよ、返せよッ!!!」


少年はその細い腕で頭を掻き毟りながら、飛び去ってゆく蝶の高笑いに堪えていた。
ぐしゃぐしゃになった頭を全く気に止めず、ただただ喚いている。
世界を拒絶するような悲鳴。
その悲痛な叫びは、静かな公園に響き渡って、平穏を奪っていった。

そして、僕の心に突き刺さる言葉を、少年は言ったのだ。


「返してくれよ! オレの影を返してくれよッ!!」


その言葉を聞いた僕は、驚愕して彼の足元に自然と目を向けてしまった。

少年の足元、彼に縫い付けられているはずの黒い影は――。
存在しなかった。


* * *


「リグ……その男は、白髪のオッドアイじゃなかったかい?」


ヴェンデルは非常に険しい表情で、少年を見据えていた。

ここは僕とヴェンデルが住みかとしている壊れかけた教会の聖堂だった。
朽ち果てた古い椅子、崩壊しかけた大きな十字架、煤で汚れた壁にはヒビが縦横無尽に走っていた。
その壊れた椅子に、少年――リグが顔を腫らしながら座っていた。
涙が全て枯れ果ててしまったのではないかと言うくらい、少年は泣き喚いた。そう、今はまさに泉が枯渇した状態にあるのだ。

リグ・カルテット。
それがこの涙が枯れ果てるまで泣いていた少年の名前。
右は長くて左は短い――左右の長さが違う風変わりなズボンを穿き、黒いマントを羽織っている。羽織っているというか、布の両端を首元で縛っているだけの、簡単な作りになっている。
黒く澄んだ瞳の下、頬は赤く、涙の印を見せ付けていた。

リグは両手でその瞳を覆っている。
口からは、いまだに嗚咽が零れ落ちており、リグの絶望をそのまま具現化している。
彼は、ヴェンデルの問いに小さく頷く。
それを見て、ヴェンデルはあからさまに不機嫌な吐息を、煙草の煙と一緒に吐き捨てた。


「そうか……アイツが、ねぇ……」

「ヴェンデル、知り合いなのか?」

「ん。知り合いも何も……」


煙草をふかしながら、ヴェンデルは頭を掻いていた。
何かを語ろうとしているようだったのだが、言葉を慎重に選んでいるようだった。
感情が表に出やすい体質ではあるが、今回ばかりはちょっと違うようだ。
彼は腕を組んで、小さく言う。


「同族だ。アイツは世界中のどこにでも存在して、どこに存在しているか判らない」

「……え?」良く判らない。

「人を罰し、人に罪を償わせる存在――《蝶》だ」


蝶。
蝶とは、即ち、この世界に存在している生き物全ての頂点に立つ者。
全ての罪と、罪を犯した人たちを罰する、存在。

僕は驚愕を覚えて、何も言う事が出来ずにいた。
ヴェンデルは蝶と言う存在を良く知っているのだ。
一番知っていると言っても良い、人間の中で誰よりも知っていると言って良いだろう。

なぜならば、同族だから。
彼は――蝶だったからだ。

しかし全ては、僕と出会い、僕に同情し、僕に罪を犯され裏切られ、崩壊した。
そう、僕のせいで、彼は蝶の翅を失った。
それでも赦してくれた。
誰よりも優しい蝶だったからだ。

とにかく、彼は《蝶》を追われ、人間となった。
罰する蝶から、赦す人間に生まれ変ったのだ。
だからこそ罪を知り、赦す事の出来る唯一の人物。

僕は寂しさの螺旋を巻きつけた切ないモノローグを終了し、泣き続けているリグを見た。
泣く事しか出来ない無力なその姿は、雨に打たれ続けた僕のように見えた。
僕の中に生まれる同族意識。
頬を赤く染めたリグの頭に触れ、宥めるように撫でた。


「リグ……痣があるんじゃないかな、身体のどこかに」

「あ…痣って……う、う……これの…事?」


リグは瞳を覆っていた手をそっと外す。
その手は宙をフラフラと彷徨いながら、右足を覆うズボンに届いた。
躊躇った様子を見せながら、震える指先で、ズボンが捲り上げる。

日差しを浴びていないのか、白い肌が晒されている。
ところどころ擦りむいた箇所があった。少年らしさが滲み出ていて可愛らしかった。
しかし、僕の目線はそこには向かなかった。
彼の脛――そこには、紛れもなく赤黒い印が刻まれているのだ。
刻印、罪の象徴、罰を受けている証。
不敵に笑う翅を伸ばした生き物は、彼の右脛に住み着いていた。
その脛を訝しげに見詰めいたヴェンデルは、柔らかい表情に顔を変化させた。
神父の表情、全てを赦すための段取り。


「思い当たる事はないかい? 何かをしてしまったりしていないかい?」

「な、何かって……何だ?」

「蝶は悪い事を許さないのさ」


ヴェンデルは、僕の手の上からリグの頭に触れた。
その手のひらは温かくて、僕の手を通じて、その温もりが伝わってくる気がした。
流れている人間の血――蝶の体液ではなくて、人間の血液が巡っているのだろう。
僕のために全てを投げ出した彼に流れている人間の血液。
全てを赦せる人。
世界を赦せる人。

リグは頭を撫でられ、少し落ち着いた様子だった。
ところどころ嗚咽を漏らしている事には変わりがないが、その零れ落ちる声の量が減ってきている。
ふぅ……と、息を切らせたように、短く呼吸をする。
それから零した言葉は、少し意外なものだった。


「きっと……オレが魔王だからだよ」

「……ん? 何だって?」


ヴェンデルは聞き取れなかったようだが、僕には確かに聞こえた。
あ、いや……聞き取りたくなかったのかも知れない。
シリアスなシーンに、少しばかり冗談の脚色が加わっているのだ。
突然のコメディシーンになっただけだ。


「オレ、魔王だから」


リグはもう一度繰り返した。
その言葉以降、聖堂の中に静寂が染み渡っていた。
誰もが言葉と言う存在を忘れ、その文明の利器を欠如させていた。
ヴェンデルが何かを言おうとしている様子が窺えたのだが、何を言ったら良いのかが判らずにいるようだった。
僕だって言葉を失ってしまったのだから。

リグは幼い。外見的な年齢を言うとしたら、十二、十三程度だろう。
そう、そうだ、夢を見ているのだ。思いを馳せて、夢と希望の翼で空を飛んでいるのだ。
つまり、幼いゆえの夢。

僕が「へー」と適当な返事を言おうとした時だった。
彼は僕があまり興味を持っていないのを察知したのか、頬を膨らませた。拗ねているのだろう。
膨らませている頬が、苺のように赤い。
先ほどあの男相手に怒鳴り散らして喚いていたが、意外と可愛い一面が――


「ていっ」

「うぐぅッ!」


強烈な痛みが僕の脛を駆け巡る。
反射的な行動で、僕はリグの頭から手を離し、自分の脛を押さえた。
その痛みは、身体に電流を流されたように痺れを生み、僕の中の感覚を壊してゆく。


「いたたたたた……っ」


僕の脛を、彼は思いっきり蹴り飛ばしたのだ。
何の躊躇いもなく、急に泣き叫ぶ事をやめて。
僕はかなりの痛みに堪えながら「な、何で…?」と小さく呟いた。


「馬鹿にしただろ!」

「馬鹿にするなって言うのか!?」ムチャ振りだ。

「オレはリグ・カルテット」


リグは腰掛けていた壊れた椅子からぴょんと飛び降りると、その羽織ったマントを靡かせて、泣き顔を完全に消し去った。
その表情には幼さが少し残されていたが、自分の宝物を自慢するかのような笑みを浮かべた。
彼はグっと親指を立てて、声を高らかに言った。


「職業は、魔王だ!」


魔王は、影を失って泣き叫んでいたのだった。





NEXT 工事中




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