自分を認めて欲しい。
自分をもっと認めて欲しい。
赦されるのなら、振り向いて欲しい。



影失いの刑



「毒をもって毒を制すと言うものだよ」

「結構です」


注射器を構えるハーキスの笑みがどうしても腹黒く感じてしまうのは、僕の性格が悪いからだろうか。
腕を晒した状態の僕は、引き攣った笑みを浮かべる事しか出来ない。
しかもその腕を、がっちりと掴まれているのだから、逃げる事は不可能だった。
……殺される…!

グリングリーンの街で一番小さな病院《フィルデレンツェ総合病院》で僕は腕の治療をされていた。
治療と言うのはただの言い方で、正確には研究されていると言えるだろう。
このまま研究をされ続けると、解剖されてしまうかも知れないと言う恐怖が込み上げてくるので、僕はさっさと古びた教会に帰りたいと思ってしまう。

ハーキスが罪を赦されてから数日が経った今、僕らは《研究者》と《実験体》としての仲を築いていった。
彼は真っ当な医者をしつつ、僕の身体を日々研究していた。
問題だった金銭の面も、神父であるヴェンデルが工面するとの事で、とりあえず生活は安定しつつあるらしい。

だがしかし。
彼の中の異常なものに、僕は薄々気付きつつある。


「知ってるかな、テッド君。予防接種と言うのは、毒を消去した病原菌を注射しているんだよ?」

「だ、だから……そんなの理由にならないよ」

「大丈夫、痛くしないって約束するから……注射の後は知らないけどね」


殺される…!
僕の身体から一斉に血が消えてゆく。まるで数日前のハーキスの顔色をそのまま再現したようだ。
ハーキスは注射器をちらちらと振りながら、にこやかに爽やかに笑っていた。

彼は、毒物マニアだった。
あの壊れかけたような家屋の診察室に、それらは犇きあうように存在していた。
僕が初めて訪れた時には気付かなかったのだが、デスクの真後ろ――埃を被った棚。
今僕の目の前に晒されているその棚に、瓶がずらりと並んでいるのだ。
僕を凝視して、威圧するように座っている瓶たちには、全てに事細かにラベルが貼られており、それぞれの個性を主張している。
それら全部が、有毒だと言うから、恐ろしい。
ハーキスが医者を始めた頃から、少しずつ集めてきた愛すべき毒物たち……らしい。
彼曰く「毒を盛っていたら、毒に魅せられてしまった」らしい。
やはり一番の犠牲者は彼だ。


「これを注射したら、テッド君の痣、治るかも」

「治らないよ! むしろ酷くなるよ! 死ぬって!」


腕をきつく抱きかかえられる。
逃げる事は不可能だ、彼の満面の笑みが僕を逃がさない。
と言うかそれ以前に、逃げる事さえ出来ないような怖い笑みを浮かべているから、僕は蛇に睨まれた蛙のようになってしまう。
僕は蛙が大の苦手なので、同類にされるだけで寒気がする。

しばらく微妙な押し問答が続いたが、結局折れたのはハーキスの方だった。
……いや、僕の方が折れたら完全に僕は死んでしまうから、折るに折れなかっただけなのだけれど、この際それは関係ない。

ハーキスは晒したままにしていた僕の手に、包帯を巻いてゆく。
二の腕から始まり、指先まで丁寧に。ちょっときつい気がした。きっと止血のための包帯の巻き方で巻いているからだろう。だって彼は医者だから。


「で、医者から見て、この腕はどう? 変?」

「そりゃあね」彼は苦笑いをする。「ぶつけてない、痛めてない。それなのに赤黒く変色した腕。しかも模様になっているなんて……普通に考えたら異常だよ」


医者の見地でも異常と烙印を押されるこの痣。
僕はこの痣を結構前から抱えているけど、不自由はしてはいない。……時々痛いけど。
贖罪をすればこの痣は消える。たまに罪深い人たちには、薄くなっていつまでも烙印を押し続ける事もある……と、ヴェンデルが言っていた。
つまり、僕はまだ赦されていない。
――赦される事なんてないだろうけれど。夢を見ても良いだろうか。僕はいつか赦されるのではないかと。

僕はいつの間にか、包帯を巻き終わった両腕を抱き締めるようにしていた。
目の前の彼の表情が曇る。


「教えてくれないかい、テッド君」

「ん?」

「君は私に《悔やめる心があるなら、赦される》と言ったよね?」

「……うーん、言った気がする」


正確には覚えていないが、言ったような言わなかったような。
自暴自棄になったハーキスを止めるために必死だったような、逆に冷静しすぎて冷え切った心を抑えていたのか……今となっては判らない。

僕は鼻の頭を掻きながら、言葉に詰まっていた。
どうやらこの先の展開は。あまり僕にとって良い物ではないようだ。


「君はもう赦されないらしいじゃないか。それってつまり、悔やめる心をなくしたって事だろう?」

「……そうなるね」


僕は悔やめる心を失った。取り戻せるかも判らない。
いや、永遠に取り戻せない確率が高いだろう。
だって、蝶に全て奪われてしまったのだから。


「……僕は、自分の罪の事を《聞かされた》だけで、覚えてないよ。だからいつまで経っても赦されないままだ」

「ふむ……変な事を勘繰りたくなるよ」

「《雨忘れの刑》は、全てを洗い流すんだ」


僕は自分自身が犯した罪をヴェンデルから《聞かされた》だけだ。
だから何も記憶に残っていない。もしかしたら、ヴェンデルが嘘をついている可能性も捨てきれない。そんな事をする人には見えないけれど。

僕は《赦し屋》のヴェンデルの雑用係のようなものを進んで行っているが、それは全て僕の中の謝罪の気持ちを具現化したものだ。
自身が犯してしまった罪の事は覚えていないけれど、罪悪感だけが積もり積もってゆく。土砂降りの雨の中佇んでいる。

あの罰で、あの刑で、全てを洗い流されたから。
僕は何も覚えていないのだ。
虚無、空虚、空っぽの心、空白が占める心。


「《雨忘れの刑》……って、何だい?」

「雨が……」

「雨が?」

「……降って…僕は全てを……失った」


洗い流される。全てを。
罪悪、記憶、生きた証、生きてきた印。
土砂降りの雨の中、途方もなく立ち尽くしている僕。
全てを洗い流されて、全てを失わされて、全てを消し去られて。
僕は新しい僕になってしまった。
《僕》の連続性を見失った。

苦しくなって、僕は頭を抱えた。
この事を考える度に胸が痛くなる、頭が痛くなる。
僕が何をしたのか、僕は何をしたのか、僕はどうしたのか、僕はなぜ忘れたのか、僕は忘れなければならない事を――忘れなければならないようなほどの罪を犯したのか。
僕は、覚えていないから不安になる。

すると、ハーキスが「この話はやめよう」と、突然言い出した。


「あまり良い話ではないようだね。やめよう。テッド君のためにならないみたいだから」

「……うん、ごめん。聞きたかったら、ヴェンデルから聞いて。ヴェンデルなら詳しく知ってる」


なぜならば。
僕の罪の矛先は、僕の中の切っ先は。


「僕はヴェンデルに対して、罪を働いたらしいから」


* * *


僕の記憶の始まりは、壊れかけた教会の前で、雨に打たれて立ち尽くしているところだ。
僕が僕の罪について聞かされたのは、雨で全てを洗い流され、何もかもを失ってしまった後だった。
白髪の軽佻浮薄な男は、僕に雨傘を差し出して、優しく笑っていた。
その笑顔の気味の悪さを僕はいまだに覚えている。


《何をしてしまったか判るかい?》


優しいけれどしっかりと罪悪感を負わせる言葉遣いで、その男は僕に言ったのだ。
何をしてしまったか……僕は覚えていなかったので首を緩く振った。
覚えていないけれど、後悔していた。
なぜか、僕の中に黒い塊が存在していたのだ。
黒い、世界中の暗黒を集めたような暗闇の黒を、僕は抱えている。
だから素直に「辛い」と訴えた。
辛い、辛い、辛い。
何が辛いか判らないから辛い。

何が苦しいのか、何が辛いのか、何が自身を苦しめて辛い目にあわせているのか――判らなくて辛い。
覚えていないという事に罪悪感を抱いた僕は、ただ降りしきる冷たい雨の痛みに堪えていた。


《覚えていなくても良い。忘れてしまっても仕方がない。世界が、全てが君を赦さなくても、俺は君を赦すよ》


ただ、赦しが欲しかった。
誰かに助けて欲しかった。
終わりのない悪夢の中、僕はその恐怖を薙ぎ払う事が出来ずに、立ち尽くす事しか出来なかったからだ。
助けて欲しかった、赦して欲しかった、解放して欲しかった。
この終わらない黒い螺旋を壊して欲しかったのだ。
得体の知れない恐怖、得体の知れない罪と罰。
僕は何を犯し、何を失ったのだろうか。


《判らなくても良い。赦されなくても良い。だから代わりに、俺が君を赦してあげよう》


その時だった。
雨音が支配する世界に、一筋の光が差し込んだのは。
分厚い雲に埋もれた僕の世界――そこに、目映い日差しが降り注いだのだ。
降りしきる雨を照らした光は、僕の頬に射した。
眩しかった世界、僕の欲しかった光。
僕を赦してくれた人。
僕が何をしたのか、僕が何をしなかったのか……全てを知っているその男は、笑って赦してくれた。


《だから、一緒に世界を赦そう。一緒においで、テッド》


差し出された雨傘を、僕は迷いながらも受け取った。
その温かさ、温もり、鼓動……鮮明に記憶に焼きついている。

こうして僕は、ヴェンデルに出会った。
助けてくれたのは、僕が罪を働いた人間――いや、この表現は間違っているのだけれど……人間だった。


「でも現実と記憶にはギャップがあるからなぁ」


あの時、僕を赦してくれたあの男が、あの尊敬出来る唯一の人が――まさか、酒に煙草に女にギャンブル三昧の出来損ない神父だとは……
僕は人を見る目を間違ってしまったのかも知れないが、少しも後悔していない。
ニヤニヤしていて考えている事が判らなくて、掴みどころなんてなくて、ふわふわした人間だけれど、僕を赦してくれた人間なのだ。
つまり、人間性よりも赦してくれた事実が大切だ。

僕は腰掛けたブランコを揺らしながら、僕の記憶の始まりを思い出していた。
身体に降り注ぐ温かい日差しは、あの時のヴェンデルのような色を帯びていた。
太陽が好きだ。なぜか。温かいからだ。
僕を赦してくれたヴェンデルのように。
雨が嫌いだ。なぜか。また全てを失う気がするからだ。
僕から全てを取り上げた蝶のように。

寂しげな公園に独りぼっちのブランコがキィ……と悲鳴をあげた。
数日前、ここで僕はハーキスを赦した。
あの時は黄昏色に染まっていた、寂れた公園。
ハーキスが自分の罪に嘆きながら座っていたブランコの上に、僕は今座っている。
座りながら、考える。

僕は赦される立場から、赦す立場に移行しつつあるらしい。
まだ僕はパシリと言う存在だけれど、人を赦せる存在になれたのだろうか。僕はまだ無力な存在だけれど、僕はまだ完全には赦されていない立場だけれど……
世界を赦せるだろうか。


「……僕は世界を怨んでいるのだろうか」


世界は、常に罪深い存在であり続ける。
人間も、常に罪深い存在であり続ける。
それは決まりきった提言、それは決まってしまっている生き方。

罪深い世界を、僕は憎んでいるのだろうか。
いや、憎んでいたのだろうか。
だって僕は……何もかもを失って……何も遺されていない。
覚えていないから。

後悔はしていないなんて……ただの詭弁に過ぎないのかも知れない。
怨んで、妬んで、拒絶して。


「僕は……自分の罪の大きさに堪えられないのか」


この包帯の下に刻まれた証。
僕の罪の全てを刻み込まれた腕。
自分の身体を抱き締めるようにして、包み込んだ。
腕に力を込め、力強く抱く。指先が震えた。

抱ききれない罪の重さが圧し掛かる。
痛い身体、痛い心、空白で支配された僕。
全てを失って、また一から全てを築いてきた。ヴェンデルが与えてくれたのだ。
翅を……《もう一度、僕に翅をくれたのだ》。

それは赦されない行為、禁忌に位置づけられた行為。
それでも僕に手を差し伸べてくれた、それでも僕に力を与えてくれた。
だから。
だからヴェンデルは《その世界から追われた》。

積み重なる行為、罪重なる行為。
自己嫌悪の念が僕を取り囲んでいた時だった。


「罪深き人よ、なぜ過ちを犯した」

「……えっ?」


その声は僕の真後ろから聞こえた。
何もかも判らずに、ただ反射的に振り返り、僕の瞳は声の主を捕らえた。

ブルーのジャケットを羽織った者の姿が、そこにあった。
日差しをも反射する眩しい長い髪。それをうなじの辺りで一纏めにして、風に靡かせている。
風にそよぐその髪は、穢れを知らない純白。
全てを包み込み、全てを受け入れるための白。

十人が見れば十人が美しいと答えるだろう、整った顔立ちは、女性のようにも思えた。
だが声色から判断するに、彼は男。ただ、年齢の判別はつかない。美しさの中に呑まれた僕の思考回路は、正常に動いてくれない。
微笑みも怒りも宿さない無機質な表情は、一枚の絵画なのではと思わせる。
その中に散りばめられた輝きを放っているエメラルドとルビーのオッドアイが、鋭くこちらを見据えている。
その強烈な視線に、眩暈を覚えたほどだ。
僕はなぜか、身動きが取れなくなってしまった。全身が痺れている。
硬直……死後硬直のようだった。ガチガチに固まって動けない。


「罪深き少年に問う、なぜそうまでして、過ちで満ちる世界に生きる」


風が言葉を攫い、僕の元へと運ぶ。
僕は……この声に、僕は聞き覚えがあった。
遠く色褪せた記憶の水底で感じる、響くその声の持ち主を――。
僕は知っていた。

彼は、**なのだと。





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