僕が白に染まってしまった黒ローブの彼を見つけたのは、日が沈みかけた夕刻だった。
グリングリーンの外れにひっそりと存在している、誰もその存在自体を覚えていないのではないだろうかと思われるほど小さな公園で、医者は黄昏ていた。
傾き、その姿を消そうとしている偉大なる光をぼんやりと眺めて、錆び付いたブランコを揺らしていた。
偉大なる医者とは到底思えないような、寂しげで儚げで、散り際の花のように凛としている。
ブランコが揺れる度に零れ落ちる小さな悲鳴は、公園の中に木霊してゆき、その音を染み渡らせる。
僕の真正面、彼は夕日に照らされた白い顔は無表情。
オレンジ色に染まったその白い男は、僕に向かってとても聞き取れないような声で言う。


「私は赦されるべきではないんだ」


赦されたい、赦されない。
それ以前の問題で、彼の中に渦巻いている自己嫌悪の念。
ハーキスはヴェンデルに赦しを願わなかった。別にそれも構わないだろう。
けれど――この場合は違う。
赦されたい、けれど、赦されるべきではない。

医者の小さな懺悔に、僕は「何で?」と相槌を返した。
彼の眼差しが虚空を捕らえていた。空ろで、何も見ていないかのような、何も認識していないような。


「私は生来、医術とは人のためになる事だと思っている。医術は人を救い、医術は命を救い、守るべきなのだと」

「医術の心得のない僕でも、そう思うよ」

「だがね……それだけでは何も出来ないのが現実なんだ」


人が傷付く度に、医者はそれを支え、励まし、守ってくれる。
医者はそう言う生き物だ、と。僕の頭の中にはあった。
でも僕は考えていなかったのだ。

考えだけで、命が救えるのか。
考えだけで、自分自身が生きていけるのか。
答えは明確。ノーだ。
考えるだけなら僕だって出来る。誰だって出来てしまう。
それだけで何かが守れるかといえば……それは必然的に否定。

僕は何かを言いかけたけど、結局言えなかった。
どこか遠くを捉えている彼の眼差しを、見詰めるだけしか出来ない。
ハーキスは不恰好にゆ唇を歪めた。
吐き捨てるように、言葉を零す。


「医者になって人を救う……はっ、そんなの、偽善に過ぎない」


彼の白い手が、自身の頭を掴んだ。
震える腕、食い込む指先。
黒に埋め込まれるようにして刺さった白い指が、段々と力を帯びていく。
ガタガタと、音が鳴りそうだった。
ハーキスは声をも震わせて、うわ言のように言葉を吐露してゆく。


「結局は生きるため。私自身が生きるため。飢えを凌ぐために、金銭を得るために、寝床を確保し、常に幸を求めるため。愚かしい事とは判っている、道徳に背くと知っている! けれど私は自分が大切で仕方がない、私だって生きなければならない!」


誰だって。
誰だって生きていたいし、誰だって幸せを求める。
それは普通の事で、それは至って本能的な事で。

僕は目の前の男が何を言いたいのか判ってしまった。
僕らが生きるために必要なもの。
信念? 意欲? 愛? 平和?
それこそ偽善、偽善の塊。
お金。結局はお金。
愛だけで生きていられるなら、方法を教えて欲しい。
信念だけで暮らしてゆけるのなら、方法を教えて欲しい。
……汚い話だ。けど、事実なのだから。目を背けられない事実なのだから。

ハーキスは白い涙を流していた。
その大粒の水滴は、頬を伝い、顎に流れ着く。
音もなく黒いローブの上に幾重にも重なりながら落ちた。
雫がオレンジの光を映している。
儚い世界だ。


「私が医者を継いだ時は、とても幸せで……どんな困難でも乗り越えられると信じていた。どんな事が起ころうと、私は人のために頑張れると思っていた」

「今だって……ハーキスは……」

「違うッ! 私は保身に走った! 私は自らのために犠牲者を出し続けた!」

「……ぎ、犠牲者……って」


犠牲者。犠牲者。犠牲者。
ギセイシャ、ギセイシャ、ギセイシャ。
犠牲者を積み重ねて、死屍累々、咲き乱れて、どんどんと灯を消してゆく。
重なり合う死体、重なり合う自己嫌悪。

虚空を見詰めていた視線を、彼は僕に合わせた。
そこに浮かび上がる憎悪の色は、僕を震え上がらせる。
その瞳が、色のない瞳が怖いと思った。
全てを、世界そのものを怨むような、憎悪と言う憎悪を混ぜ合わせた白い瞳。
僕を捕らえて、それは襲い掛かる。


「エリス・フェンブリーゲン宛の菓子類」

「……え?」


何かが罅割れたような音が聞こえた。
乾いた花が吹き飛ぶような轟音が聞こえた。
僕は多分――彼を怨む事は出来ないけれど、彼を憎む事は出来ないけれど――彼のその憎悪の塊を、忘れる事は出来ないだろう。


「あれに毒を盛ったのは、私自身だ」


世界が、静止した。
しかし、頭の中は猛スピードで思い出が逆走する。

エリスの笑い声、大きなトートバッグ、お祝いの品、グリングリーンの楽園、蝶の痣、彼女の苦痛、僕の苦痛、歌謳いの刑、僕の罪、僕の罰、雨忘れの刑、刻まれた斑、忘れた名前、忘れた罰、忘れたかった過去、奪われてしまった記憶、失いたかった世界、拒絶した未来、絶縁した自身、裏切った日々、裏切られた毎日、捨て去りたかった全部……
全部、全部、全部……!

そのフィルムは、がちんと音を立てて急激に止まった。
記憶の再生部分は途切れ、唐突に終わっていた。
これ以上再生出来る部分はない、これ以上残されているものはない。

だから、僕は、目の前の現実に、刺されている。


「生きるために何をしても良いか、赦されるのか。それはノーだろう? だから私は赦されない、赦されるべきじゃない」


人は生きるために何かを日々殺めてゆく。
殺めない日々など存在しない、そんな日が来る事は叶わない。
常に何かを犠牲にして、常に何かを踏み台にして生きてゆく。
何かを虐げて踏み潰して、毎日を過ごしてゆく。
気がついて、振り向いた時、犠牲者ばかりが積み重なっている、罪重なっている。

目の前の白い男が、ただ一人の小さな人間に見えた。
震える指先で包んだ頭。フードから覗かせる雪のような肌と、赤黒い罪の印。
僕はなぜかそれが哀れに思えて、なぜか哀しく思えて。
……でも、とても、愛しいと思った。

僕らは生きる度に苦しむ。
じゃあ、生きる事は罪なのか。
そんなの……間違っている。

ハーキスは震える声で、言葉を紡ぎ続けていた。
それはまさに懺悔、それはまさに後悔。


「私は犠牲者を作りすぎた、生みすぎた。人を巻き込んで……人を殺めたと同じ。だから赦されない、赦されるべきでは――」


愛しいから、これ以上何も言わせたくなかった。
だから目の前に展開される世界に、僕は拒絶を表す。
罪を犯す事は悪い事ではない、彼の中にまだ罪悪と言う感情が残っているのなら、まだ間に合うのだから。


「そんなの、理由にならない」

「……え?」

「人を苦しめていはいけない。それはルール、モラルじゃない。けどさ……」


誰よりも罪の重さを知っているのだからから。
誰よりも贖罪を願っているのだから。
誰よりも赦されないと思っているのだから。

僕は自然と手を握り締めていた。
強く、強く、爪が刺さって血が出るくらいに。
むしろ、血を流そうとしているかのように。
ハーキスをこの茶色い眼で見詰めて、離さないように。

この人は、生きるべき人間だから。


「悔やめるなら、赦されるよ」


僕にはもう赦されるための記憶――悔やめる心を忘れてしまったけれど。
彼ならきっと大丈夫。
だって誰よりも悔やんでいるのだから。

唖然とした表情を浮かべた彼の白い顔。
何も判っていないような表情だったけれど、それが自然と崩壊してゆく。
堰き止められていた水が溢れ出すように、勢いは止められない。
崩れ去った堰は、何もかもを巻き込みながら、彼に言葉を紡がせる。


「何が……言い訳になる? 私が生きていて良い理由なんて……何が理由になる? 私は人を傷つけ続けた、私は人に牙を剥いた。悔やむだけで私は赦されるのか?」

「罪を犯す事は悪い事じゃないよ。悔い改められる心があるなら、犯した罪を償える」


少なくとも僕はそう考えている。
僕らは生きる度に人を傷付ける生き物だ。
僕らは生きる度に人に牙を剥く生き物だ。
だからこそ、贖える。
でも、僕はもう絶対に戻れない罪を犯したけれど。
まだ引き返せる場所にいる彼は、戻るべきなのだ。
帰れる場所に、帰るべきなのだから。

僕が微笑を浮かべると、彼の中の何かは完全に決壊したようだった。
止め処ない感情があふれ出して零れ落ちて、止められない思いが流れ出して。

悲しみに嘆く夜もあっただろう。
哀れみに悲鳴を上げる日もあっただろう。
自分の罪に苦しむ毎日だっただろう。
そしてそれから解放される日が来る事を祈りながら、日々を過ごしていただろう。
赦されないと思いながらも、赦される事を夢見て。
引き返せない事をしたと後悔しながらも、引き返せると誰かに微笑んで欲しくて。
――だから、僕らは赦そう、彼を。


「あなたは、赦されるよ」


待ち望んでいただろう、その言葉。
僕らは赦そう、赦せるのだから。
苦しみに焦がれた胸を、僕らは癒そう。
彼が医者なら、僕らは赦し屋なのだから。


「私は……赦されるのか……」


僕の言葉を聞きながら、彼は白い雫を溢れさせていた。
雫は頬をなぞり、黒いローブに落ちてゆく。
この静かで平凡な世界の中に、白が注がれる。
全てを洗い流す、全てを赦す、幸せの光。
それらはオレンジに輝く夕暮れと混ざり、不思議な色を生み出した。


「……っ!」


その雫は、淡い光を帯びていた。
彼の瞳から零れるその雫が空気に触れる度に輝く。
懺悔を聞いたそれらが、まるで優しく微笑むかのように。
温かさは、安らぎとなって僕らを癒してくれる。
ローブに染み込んでゆく光は、次第にその強さを増してゆく。
広がり、そして、彼を包むように優しく抱く。

色だった。
その光が強くなればなるほど、彼の身体に色が戻って来る。
失われた色。
毛先に黄色が灯り、瞳に緑が宿り、頬に紅が戻る。
全てを取り戻した彼の身体には、病的な要素が一つも見当たらなかった。
美しい外見、非の打ち所のない美人。
白を白で洗い流したその表面は、何かを一つ乗り越えた印だ。

彼は自分の両手を眺めていた。
血色の戻った肌、温もりを宿した腕。
自分の身体が自分に戻ってゆく感覚に、戸惑っているようで、喜んでいるようで。
僕は、彼に降り注ぐその軽やかな感覚に、いつまでも酔っていられるような気がした。
幸せは、こんなにも傍に存在していた。

そして。
僕の目にしっかりと焼きついたのは、彼の左目の下。
黒い痣が薄らいでゆく。
まるで太陽が沈むように、何も言わずに彼を解放する。
解放されたのは自身か、それとも、目には見えない心か。

僕はこの瞬間が何よりも好きだ。
陰鬱な心も取り去ってゆく、美しい罪と罰の証。
嬉しくて、哀しくて、切なくて、愛おしい。
だから彼に向けて、僕は今一度笑う。


「ほら、赦してくれた」


僕は赦されないけれど、彼は違う。
己の罰から逃げられない故に、己の悪を誰よりも知っている。
だから苦しい、だから赦される。

彼は両腕から視線をずらし、その瞳に僕を映した。
色を取り戻した医者は、どこか不思議な眼差しで笑う。
その温かさは、まるで暖炉のような温もりを抱いていた。
そこにいてくれる優しさ、支えてくれる強さ。

失った色を取り戻した……違う、失いかけた感情を取り戻したのだ。
いつの頃からか、彼が抱いていた感情。
憎悪、罪悪。
それらが剥落して白の中に溶け込んでゆくのだ。
純白は美しく、輝く。

彼の憎悪に満ちた呪詛も、僕の頭から離れる事もないだろうけれど。
この時に見せた彼の表情も、きっと忘れるなんて事はないのだろう。


「……ありがとう」


目に見えない大切なものを取り戻したハーキスは、綿のように柔らかな、シルクのように艶やかな微笑を浮かべる。
人間さを取り戻した、医者。
自分の色を取り戻した、彼。
その愛おしさは、僕に刻み込まれている。

夕日は何も言わずに、消えた。


* * *


後日、彼の楽のない人生について聞いた時、僕にちょっと似ているような気がして、親近感が沸いた。

傾きかけた経営、決して楽しくなかった生活。
不器用な覚悟、赦されない考え、そして――犯した罪。

親しい友人たちに毒を盛り、自分の手で治療する。
次々に手をかけて牙を剥いて、己の手を汚す。
偽者の信頼を構築し、偽りの業績を上げてゆく。

冴えないやり方だった。
まともな考えではなかったけれど。
それ以外のやり方なんて、見つからなかったのだろう。
ハーキス自身、それを罪であると知っていた。
僕だって罪である事が判る。
ただ、生まれついた病弱を抱え、明日の生活を憂う日々が続く。
それが理由になるのか。答えは首を横に振るうだろう。
見てみぬ振りをするしかなかったのだ。
僕らは生きるために何かを犠牲にするのだから。
彼の場合、それが《人》だっただけにすぎない。
患者を自ら作り出す事――それが、彼の生み出した罪と犠牲。

自分の意思で医者の道を歩んだ。
格好たる意思で、自分の思想を守るために、人を救うために医者になったのに。
負の螺旋から抜け出せなかったのだ。
上手くいかない物事、苦しい生活。
相反していた思想が重なり、暗闇の道に導いた。
数奇な運命に捕らわれ、数奇な運命に翻弄された。
そう、彼自身が犠牲者だったのだ。

それを、彼自身は知っていたのだろうか。
自分自身が一番の犠牲者だと言う事に。


「生きたいって言うのは、一番本能に近い感情だ」


ヴェンデルは罅割れかけたコップにコーヒーを注ぎながら、そう語った。
周囲を支配する香ばしいコーヒーの香りは、僕の心に安らぎを注ぎ込んでくれた。
彼の優雅な手つきを眺めていた僕は、生きるという事はどう言う事か……そんな考えしか浮かばなかった。

誰だって生きたい。
誰だって死にたくない。
だって、生きているのだから。


「誰もそれを責められない。責められるのは蝶だけだ」


彼は、ようやく一つの結論に至ったのだろう。
自分の作り出した患者たちを、自らの手で癒してゆく。
そして永遠に次の犠牲者を出さない事を。

黄昏に見た白い幻影。
色の戻った世界。
罪深き人々を罰する蝶によって、見出された正しい道。

今度は間違いなく歩む事が出来るだろう。
なぜなら、螺旋はもう崩壊しているのだから。


「テッドだって、生きたいだろう?」

「……そうだね」


ヴェンデルが飲むコーヒーの香りで満たされた聖堂の中、僕の中の負の螺旋はいつまで回り続けているのだろうと、疑問に思っていた。




白戻しの刑 了



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赦し屋シリーズ、第二話。
こう言う事件は実際に起こるそうで。
と言うか、ハーキスがなぜか腹黒いイメージになってゆく。

次回の罪人は希薄な少年です。



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