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ハーキス・フロイライト。 二十四にして、全ての医術を頭の中に叩き込み、人々を癒す医者。 亡き父、フィルデレンツェ・フロイライトの後を継ぎ、この病院を守り続けている、ある意味番人と呼べるだろう人物。 病人に対しては差別も区別もない、医者の最上級、医者の鑑。 技術はさる事ながら、人当たりも良い。 医者としての最上級と言うよりも、人間として最上級だと言って良いだろう。 患者がいれば雨の日も雪の日も、そこに駆けつけられる人間。 ……これは、僕が後日ヴェンデル聞いた話だ。 僕は薄汚れた診察室の中にポツリと寂しそうに置いてある丸い椅子の上に座っていた。 黒衣の医者がここに座って待っているようにと、僕に言ったのだ。 どうやらこれから診察が始まるらしい。 このような場所で医者を続けていると言うのは、ある意味凄いだろう。 全体的に埃っぽいような診察室。 天上は薄汚れていて、角には蜘蛛の巣が張っているのが見て取れた。蜘蛛自体はいないようだが。 古びた本や、シミのある古書のような香りがしている。普通病院と言ったら、消毒液の香りが取り巻いているはずなのだが、ここは例外のようだ。 存在しているのは、僕の座っている椅子と彼が座るように置いてある椅子。それから書き物をするためのデスクが椅子の左横にあった。 整理整頓されたデスクには、紙とペンが置いてある。 机の上だけでなく、部屋全体も綺麗にするべきなのではないだろうか。 僕が居た堪れなくなって来て、腰を軽く捻ってみた。 キィと、椅子から小さな悲鳴が聞こえた。 その音に合わさるようにして、僕の後ろ側に存在していた木の扉が開く音が響いた。 そこから姿を現したのは、相変わらず黒いローブを被った人間。 「お待たせしました……えーと…」 「テッドです」 「テッド君か……ファミリーネームは?」 「……ありません」 突っ込まれるかと思ったけれど、彼は何も言わずに頷いた。 消え入りそうな小さな声で「私はハーキス・フロイライト、医者です」と名前を教えてくれた。 僕と言う存在は、一度消えかかった。 その時に名前は強制的に捨て去られた。 そして「テッド」と言う名前を、ヴェンデルから貰ったのだ。 ファミリーネームなんて言うものは、捨ててしまったので、僕には存在していない。 ……別に不便なんて事はない。必要があればヴェンデルのファミリーネームを頂戴している。無許可だけれど。 ハーキスは黒いローブで顔を隠したままだった。 これは医者と言うよりも魔女だ。男だけれど。 彼は僕の目の前に用意された、更に壊れかけたような椅子に腰をかけると、僕の右腕を掴んだ。 「これは、どうしました?」 「……お洒落です」嘘だけど。 「……じゃあ、後回しにしよう。君、私の病院の前に立っていたけれど……調子でも悪かったのかな?」 「実は……」 どこまで話したら良いのか判らなかったけれど、僕はとりあえずハーキスに体調不良の事を伝えた。 エリスから貰ったクッキーが悪かったと言うのは伏せておく。 確信に似たものはあるけれど、絶対的な確信ではない。 僕が体調不良(主に吐き気)の事を伝えると、彼はデスクの上にあった紙(カルテだろうか)に何やら書き始めた。 そして「いつから体調が悪いんですか?」や「実際に吐きました?」と医者らしい質問を繰り返した。 こんな辺鄙な場所に居を構えているけれど、列記とした医者なのだろう。 ヴェンデルも辺鄙な場所に住んでいて変人だけれど、やっぱり良い神父だ。 住居に人格は関係ないのだろう。妙に納得出来た。 「テッド君、体調があまりにも悪そうだから、注射しましょう」 「あ、はい。……って…」 僕が重要な事に気付く前に、彼はさっさと僕の包帯に手をかけていた。 注射即ち、包帯を解いて肌を露出させる。 あの不気味で気色の悪い痣を全面に晒す事になる。 僕はハーキスの手を振り解こうと抵抗しようとしたのだが、時は既に遅かった。 時間とは常に進むものだ。哀しいけれど。 痣。痣。痣。 赤黒くて、気持ち悪くて、みんなに嫌われる証の色。 僕は反射的に――怖くなってしまい目を強く瞑った。 そして、予想通りの言葉が返ってくる。 「……っ、テッド君……これは……」 やってしまった。 僕の左手は空気に晒されている。 蝶がざわめき、羽ばたき、ケタケタと甲高い笑いを放っている。 僕は好奇な目で見られるのが嫌で、包帯でこれを隠していた。 エリスの件を思い出して欲しい。彼女もまた手袋と言う手段で痣を隠していた。 蝶の痣と言うのは、一般的に無名なものなのだ。 人々に知れ渡っていない。なぜか。簡単だ。不気味なものを嫌う人間たちは、異端を隠すからだ。 世の中に罰を受けている人間は数多くいる。けれどそれらはその事を隠している。そして、罰を受けているのだと知らない。 不気味で奇怪で異端。 だからこそ、知られていない。 例えそれが、医者であったとしても。 僕は言葉に詰まってしまい、下を向いていた。 嫌われるだろうか。追い出されるだろうか。 頭の中に良くない単語が渦を巻き始める。それらに飲み込まれそうになりながら、一番良い方法を模索する。 でも、見つからなかった。 しかしながら、物事は、不思議な螺旋を描いている。 「なぜ君は、私と同じ痣を抱いているんだい?」 「……え?」 僕が視線をハーキスに戻した時、とても驚愕なものを見つけてしまう。 彼は白い手で、フードを脱いだ。 露わになるのは、雪のように白い……いや、雪よりもなお白い、真っ白な、血を得ていないのではないのかと思わせるような白い肌。 髪も、瞳も、何もかもが真っ白で構成された人間。 そして何よりも僕を捕らえたのは、彼の左目の下だった。 白の中に赤が刻み込まれていた。 雪原に埋め込まれた赤と黒。翅を伸ばし、不敵に笑う印。 罪人の印、罪人の証。 「蝶の痣……」 蝶は、そこで、笑っていた。 * * * 「《白戻りの刑》」 「白…戻り……ですか」 教会と言う名前を借りたボロ屋の聖堂。 僕らは一週間前にエリスと話した時のように、三人で円を描いて座っている。 僕の右にはヴェンデル――《赦し屋》だ。 正反対の方向には、白銀に染まった医者が所在無さ気に座っている。 結局僕はあの後、吐き気止めの注射をしてもらい、ハーキスをこの教会に招いた。 罰を背負う人間なら、あの神父の出番だから。 ハーキスはその目の下に刻まれた赤い刻印を晒している。ヴェンデルに見せて欲しいと言われ、渋々外したのだ。 誰だって醜い姿を見られたくない。僕だって同じだ。 僕も包帯を巻き直し、素肌を隠している。 彼は自分の罪の証に触れながら、ヴェンデルに言われた単語をうわ言のように呟いている。 医者なのに、誰よりも病人のように見える。 相変わらずの黒い表紙の本を、ヴェンデルは読んでいた。 全ての罰を記した《罪の経典》。 ヴェンデルはそれを見詰めながら、不安そうな面持ちの医者に言葉を継ぎ足す。 「白戻り……全身が真っ白に染められてしまう。色を全て蝶に奪われる」 「……色は、帰って来るんですか?」ハーキスは白い顔を更に白くしている。 「罪を認めれば、ね」 罪を認めれば良い。 簡単そうに見えて、かなり難しい。 エリスはそれを認めた。僕は罰は覚えているが罪は覚えていない。 そしてこの医者は――どうなのだろうか。 ヴェンデルの言葉を聞いて、ハーキスの顔色は曇っていくばかりだった。 一向に晴れない永遠の濁り空。 それは、罪を知っているからだろうか。 自分自身の罪に気付いているからだろうか。 ……認めたくないからだろうか。 ヴェンデルは紫煙を吐きながら、優しい神父の眼差しで、ハーキスに微笑みかけていた。 《何か、いけない事をしなかったかい?》 《罪に背を向けていないかい?》 口に出さなくとも、それは冷静にハーキスに向けられている。 僕は何も言えない。 ハーキスが固まっているのを見詰める事しか出来ない。 「私は……罪に問われる事など……」 「しているよ」ヴェンデルは優しいけどきっぱり否定した。 「犯罪など――」 「ん、犯罪なんかじゃない。道徳心に背く事をする……それが罪。それが罰を受ける」 余計に医者は固まっていた。 蒼白の顔を更に蒼白にして、俯いている。 考えているのだろうか……小さく唸っている。 犯罪だから裁かれる訳ではないのだ。 何に対して罰が来るのか。それは簡単な事。 目を背けてはいけない事から目を背ける事。 道徳心に背く事。 蝶は平穏を望み、人の悪を決して赦さない。 僕はもう、赦されない領域に入っているけれど……ハーキスはどうなのだろう。 ヴェンデルは僕に「赦されないかも知れない」と囁いた時があった。 だから僕は完全に許されなくても良いと思っているし、僕以外に許されない人が出るなんて、悲しい話だ。 だから、僕以外の人たちは許されて欲しい。 エリスも、ハーキスも、これから出会う人全て。 そして、何よりも、ヴェンデル自身が赦されるべきだ。 ハーキスはしばらく黙っていたけれど、ヴェンデルの吐く白い煙をおぼろげな目線で見詰めながら、言葉を紡ぎだした。 「私には、思い当たる節はありません……」 「誰でもそう思ってるはずだ。自分は罪を犯してなどいないと」 「…………帰ります。私は、帰ります」 「え? 何で?」僕は突然の言葉に、酷く狼狽した。 ハーキスは罪から、逃げようとしているのだろうか。 僕が引き止めようとした時、彼は既に立ち上がっていた。 そそくさとフードを被りなおし、よろよろとした足取りで、外へ通じる扉の方に歩みを進めている。 こつこつこつ。 寂しげなブーツの音が、壊れかけた聖堂に響いている。 いたたまれない、こんなのは、おかしい。 僕は立ち上がって彼の後を追おうとしたけれど、後ろから僕の名前を呼ぶ男がいたので、足取りを止めてしまった。 振り向けば、真面目な顔をしたヴェンデルが、煙草を捻り消している。 「引き止めなくて良い」 「何で? ヴェンデル?」 「赦されたくなければ、俺は何も出来ない。本人が赦されない事を望んでいるなら、俺はこれ以上何もする気は無いよ」 静かに聖堂に響く彼の声は、僕の足を地面に縫い止めた。 彼の物言いに、僕は怯んでしまっているようだった。 赦されたくない……なんて、そんな事。 あるはずがない、あってはいけない。 だって、僕は赦されたくても、もう決して赦されないのだから。 ある日僕は罪か犯して罰を背負った。 それがどんな罪かは鮮明に思い出せない。霞がかっていてぼやけていて、薄汚れた記憶。 僕は罪の赦され方を教わったけれど、完全に赦される方法はなかった。 ヴェンデルの元で、罪に苦しむ人々を沢山目の当たりにした。 誰しもが辛く、哀しい過去を抱えて、犯したくない罪を負って、赦されるために贖う。 でも、僕は……赦されない罪を抱えて、赦されたいと願っているのに、それはもう叶わない事で。 ――贅沢な悩みだ。 僕は足を縫い止める針を振り切った。 僕自身が許されないのなら、僕は人を赦せるようになりたいから。 ヴェンデルの顔が訝しげに歪む。 険しい表情で、僕がこれから行おうと思っている事を――否定はしていない……けれど、薦めてはいないような表情だった。 彼のやり方が気に入らない訳ではないし、彼が嫌いな訳でもない。 ただ僕は、ハーキスの事が、とても心配だから。 「テッド」 「見て見ぬ振りは出来ないよ。僕はもう、そう言う罪から逃げない」 「……」 彼は黙って、目を細めた。 多分、僕のことを一番判ってくれている人だろうから、僕が追いかける事も判っていたのかも知れない。 僕は自分の罪から逃げられない。 誰だって蝶の痣からは逃げられない。 逃げようとしても、逃げようとしても――それは背後にピタリと影を落として、笑っている。 だから逃げない、逃がす事を認めない。 僕以外の人は須らく、赦されるべきだから。 ヴェンデルは僕の決意を見て、薄く表面に笑顔を浮かべて、自身の白い髪に指先を絡ませた。 「じゃあ、助けてあげなさい。《赦し屋》さん」 僕は駆け出した。 白い彼に追いつくように、走る。 目前に迫る壊れかけた扉に手を付いて、それを押し開けて。 差し込んでくる光……温かさに目を細めて、その罪にまみれた世界に飛び出してゆく。 僕らが生きる世界は、罪が赦されるまで罰が具現化する世界。 それを人は背負い、嘆き、泣きながらも――贖うのだ。 そう。 僕が赦されないのなら、人を赦せるようにならなければ。 だって、僕は《赦し屋》のパシリだから。 NEXT 工事中 |
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