生きるために何かを犠牲にする。
他人、自分、やっぱり他人。
誰だって、生きたいと願うから。



白戻りの刑



僕が四度目に劇場を訪れた時も、相変わらず賑わっていた。
観客が一つになっての拍手の嵐に、彼女は再び頭を下げていた。
黒い髪に黒い瞳、黒いドレスを纏った彼女は、何も言わずにただ頭を垂れている。
スポットライトを全て独占した彼女は、年齢を感じさせないほどお淑やかで、優雅で、一人前だった。

エリス・フェンブリーゲン。
つい一週間ほど前に、ヴェンデルによって罪を赦された、若干十四歳の天才舞台女優。
歌、踊り、容姿――三つ全てが最高級の、本物の天才。
そして、悲劇的にも、彼女は苦悩しながら歌い続けなければならないと言う罰を背負った。
犠牲にしてはいけないものを犠牲にしてしまった。
そこから目を背けていた。
それを、蝶は許してくれなかったのだ。

だが、もうそれは過去の事だ。
確かに苦しいかも知れないが、歌い続ける道を選んだ。
自分のためにも、犠牲にした弟のためにも。
あの時、言葉を漏らすように述べていた懺悔は、今は聞こえない。

劇は先程終わりを告げたのに、会場内のざわめきはとどまる事を知らなかった。
拍手と歓声が、ずっと劇場内に響いている。
……さてと。
僕は拍手を早々に切り上げて、劇場の出口に向かった。
今日は劇を見に来ただけではない、彼女と話がしたくてやって来たのだ。
僕は薄暗い、伸びるように続いた廊下を歩き、場外へと通じる扉をそっと開けた。

日の光を浴びるのは、多分二時間ほど前だったろう。
長い劇だろうが、長いと全然感じさせない。
僕は至福と言う時を、銀貨五枚で手に入れたのだ。

僕の瞳に、白くて眩しい、昼の閃光が差し込んで来た。
劇場内の黒とは違い、生き生きとした大地の息吹が顔を撫でてゆく。
伸びをして、一息。
僕は足を裏口に向け、軽い足取りで歩き始めた。


グリングリーンには、罪が満ち溢れている。
そして、それに誰も気が付けない、気が付かない。
そして、誰もが気付きたくないと思っている。
蝶は、それを決して逃さない。
彼らは僕らを責め、改めるように急かす。
僕も、エリスも、責められた。
それから解放されたエリスに合いたくて、僕は胸を高鳴らせていた。


……のだが。
この時は気が付かなかったが、僕は不審な人物とすれ違った。
脳の中の記憶には残っていないが、僕の横を通り過ぎた、不審人物がいたのだ。そして、僕はそれに気が付かなかったのだ。何とも間抜けな話だが。
記憶にないのだが、不審人物はその場所にいた。

黒いローブ。フードを頭から被り、顔全体をほとんど隠している。
温かい日差しが注がれていると言うのに、当人だけ四季を逆走しているような格好。
黒、黒、黒。
まるでエリスのような黒を纏った人物は、僕を遠巻きに見据えたまま、何も言わずに佇んでいた。


* * *


「やあ、エリス。調子はどう?」


裏口からひっそりと出て来たエリスに、僕は気さくに声をかける。
また《あなたに興味はない》と言われたらどうしようかと思ったけれど、彼女はそんな事をしなかった。
柔らかい、太陽のような微笑を浮かべて、手袋に包まれた右手を緩やかに振った。
左手には大きめのトートバッグを提げている。衣装や小物が入っているのだろうか。


「テッド、来てくれたの?」

「うん、もう一度見たくてさ」僕はつられて笑う。「ヴェンデルに部屋の掃除頼まれたけど、面倒だから無視したよ」


エリスは「そんな事して良かったの?」と顔を苦笑いでいっぱいにさせる。
別に構わないだろう。ちなみにヴェンデルは寝ているだろうし。
起床時刻は決まって午後二時だ。今現在は一時半。
今から帰って片付け始めても、多分間に合うだろう。
そう告げると、エリスは輝かしい笑顔で、笑った。
僕はその笑顔が見たかったのだろう。心が満たされた感覚で溢れる。


「私、今度ヴェンデルさんにお礼しなきゃ」

「別に行かなくても良いよ、調子に乗るから」

「……あ、そうだ」


エリスは何かを思い立ったらしい。
ごそごそとバックの中に手をいれ、何かを探しているようだった。
それにしても割りと大きなトートバッグだ。
体躯の小さな少女が持つものとしてはおかしいような気がする。それに、よく考えたら衣装なんて持ち帰らないような。
僕が不自然な顔をしていたからだろう、エリスは「ちょっと色々あって」と言葉を足した。

彼女はバッグの中から、袋詰めにされたクッキーを取り出した。
そんな事を想像もしていなかった僕は、少し間抜けな表情をしていただろう。

その見れば見るほど美味しそうに見えるクッキーを僕に差し出して、彼女は笑っていた。受け取れと言っているのだろうか。


「最近、色んな方からお祝いを貰うから」

「あ。観客導入数の新記録だったっけ」僕はすっかり手土産を忘れていた。何たる失態。

「で、貰いすぎちゃって……私、食べきらないから」

「……くれるのか?」


「本当はきちんと私が食べたいけど」と言葉を濁す。
沢山の品物を貰っても、この小さな少女では消化しきれないのだろう。外見通りに食欲が細いのかも知れない。

僕は多少戸惑ったが、彼女の気持ちを無碍に出来る訳がなかった。
送り主に失礼な気もするが、ここは貰っておくべきだろうと納得する。
……いや、僕がただ単に小腹が空いたからではない……と、一応言っておく。

彼女の手に握られた綺麗にラッピングされた袋を、僕は受け取った。
意外とずっしりしていて、その感覚の驚く。さすがにこんな量は食べきれないだろう、僕でも。
ヴェンデルに分けてあげたら喜ぶだろうか……と、思うだけで実行しない思考が過ぎる。
僕は「ありがとう」とお礼を言っておく。
彼女も笑顔のまま「内緒にしてね」と告げた。


「で、テッド。何か用?」

「あ、忘れてた」


彼女の様子を見に来たのは、僕の意思でもあった。
蝶の束縛から解放されて、彼女は自由に羽ばたけるようになったけれど、まだまだ迷っているのではないか、身体を震わせているのではないだろうかと思ったのだ。
ヴェンデルはアフターケアなんて思いつかないだろうし、ここは僕自身が動く必要があった。

彼女と少し会話しただけでも、元気さが伝わってくる。
一週間前、とげとげした演技を見せていた彼女だったけれど、今はすっかり丸くなっていた。
丸く、磨かれた、艶やかな演技。
僕は安心したのだ。彼女が何かを取り戻した事に。


「右手はどう? 痛くない?」

「痛まない。跡一つ残らず綺麗に消えた」

「うん。なら良かったよ。舞台女優だもんね、肌は綺麗にしないと」


右の手のひらに刻まれた、蝶の痣。
それは罪を犯した印、罰を受けている印。
気味の悪い蝶がニヤニヤと笑いながら住み着く証。

エリスははめていた右の手袋から、手を引き抜いた。
以前と変わらない白い指先が姿を現して、僕の目を惹きつける。
柔らかそうなその手のひらを僕に差し出した。
――何もない、綺麗な手のひらだった。


「本当だ、すっかり綺麗だ。たまに残る人、いるからさ」

「それって、自分の事を言ってる?」

「ん……んー、まぁね」


僕の身体には相変わらず蝶が巣くったままだ。
両腕に、肩から指先まで、無数の蝶が犇き合いながら混在している。
不気味な蝶は、潜んだままだ。

僕は以前、エリスと同じように罪に問われていた。
そして罰を受けた。
ヴェンデルに言わせれば《雨忘れの刑》らしい。
身体が、心が、雨に打たれる度に傷付いていくと言う刑。
僕はあの時、本当に死んでも後悔しなかっただろう。それどころか、死ぬ事を望んでいただろう。

だけれど、一筋の光が僕を射した。
それが、《赦し屋》のヴェンデル。
白髪に髭面、煙草に酒にと忙しい、胡散臭い神父。
そして、彼の手助けで、ある程度赦してもらえたのだが、いまだに全てを許されていないのだ。
だから蝶はまだ消えない。増えないけれど。

そしてそれらは、時々疼くのだ。
雨を見る度に、身体中で、一斉に羽ばたこうとする。
気味の悪い悪寒と、得体の知れない恐怖。
僕はまだそれらに苛まれている。
……でも、僕はもうそれに慣れた。

何となく、分が悪い感じが支配し始めたので、鼻の頭を掻きながら「僕の事は、どうでも良いよ」と会話を強制終了させる。


「そうだ、ヴェンデルがまた舞台見に行きたいって言ってたよ」途中で居眠りこいていたのを、僕は知っているが。「頑張ってる姿を見せるのが、恩返しなんじゃないかな?」

「じゃあ、今度無料のチケット渡すから、是非見に来て」

「楽しみにしてるよ。……おっと」


僕の頭の中に、部屋の掃除と言う単語が流れ込んで来る。
ヴェンデルの汚い部屋(いや、もう部屋と呼べるのかすら怪しい気のする廃墟だけれど)を片付けるのは、なぜか僕の仕事だった。

名残惜しいような気がするけれど、僕はエリスに別れを告げた。
彼女は嫌そうな顔一つせずに、逆に「来てくれてありがとう」と言ってくれた。


「じゃあ、またね」


期限のない約束を交わすと、僕は劇場に背を向けて歩き始めた。
その足取りは軽やかで、足に羽が生えたみたいだった。
この青い空をどこまでも飛べるような気分。
爽やかで、温かで。

だからついつい浮かれた気分で、クッキーを齧ってしまった。
これがとんでもない事を引き起こすなんて、全く考えもしていなかったのだ。





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