「私はあなたに興味はない」


彼女の第一声は僕をけちょんけちょんに傷つけた。
舞台の上で放った、凛とした声色を武器に僕に冷たい視線を向けている。
いや、確かに見ず知らずの男に声をかけられたら嫌だろうけど。
そのうえ彼女は有名人だから。


「私はあなたに興味はない」

「二回も言われなくても判ってるよ……」

「そう。それじゃ」


およそ、数秒前の出来事。
エリスは舞台上と対して変わらない服装をして、裏口から出て来た。
無表情をしていたが、僕を見つけた途端彼女の表情に曇りと言うか、影が出来た。
似合わないしかめっ面をして、僕をあしらう。

《興味はない》

僕は何かを言う前から拒絶された。絶対的な拒絶を。
有名人は見知らぬ人に対して厳しいのかも知れない。いや、誰だって厳しいか。
結局僕が何かを言う前に、エリスはぷいっと顔を背け、足早に歩き始めた。
僕よりも小さな身長に似合う、小さな歩幅。

この時彼女が何事も無く歩き続けていれば、物事が発展する事なんてなかった。
ヴェンデルに文句を言われるかも知れないが、別に良いやと投げ捨てる事が出来たはずだろう。
しかし、現実はそうならなかった。
……彼女は足を止めて、振り返ったのだ。

舞台で見せる冷静な表情ではなくて。
舞台で声高らかに歌う姿ではなくて。
真の意味で無表情を纏っている彼女の……白い顔。


「ねえ、あなた。歌うって楽しい?」

「え?」

「歌うのは、楽しい?」

「好きだから歌ってるんじゃないの?」


僕の言葉に、彼女の凝固したような表情は研ぎ澄まされて行く。
鋭利な刃物のように、僕を突き刺す。
赤い薔薇のように、僕を傷つける。
きっとこの先、彼女の冷たい表情を忘れる事は出来ないだろう。
それほどまでに凍えた表情、凍てついた顔。
僕の背筋に、零下を切った汗が伝い落ちるのが判る。
ひやり……ではない、ぞくりとした何か。
背筋を何かが這い回っている感覚、気持ちの悪い感触が広がってゆく。
そして、ようやくその感覚の名前を思い出した。 僕は怯えているのだ、年端もいかない少女一人に。
彼女は、僕を凍えさせた鋭い笑みを浮かべている。
そして、言い切ったのだ。


「私は、歌なんて大嫌い」


言葉は、僕を抉った。
あの、歌う事が何よりの喜びのように、舞台に君臨した少女は冷たい言葉で、それを薙ぎ払ったのだ。
僕は固まったまま、その少女を瞳に映していた。

こんな冷たい目線を、十四歳の少女がする事が出来るのだろうか。
現に、目の前でしているじゃないか。
いや……違う、舞台の上のエリスではない。別人だと思わせる顔。

歌を嫌っている。歌い続けているのに。
歌い続ける以外の選択肢なんて見つからないだろうに。
エリスは目の前で笑い続けている。 僕でも出来ないような冷酷な表情を貼り付けた彼女は、その言葉を噛み締めるようにして言う。


「私は歌なんて、大嫌いになった。歌う事が苦痛でしかない」

「じゃあ、どうして――」

「理由なんてものが必要? なら教える」


彼女の黒い髪の中に、白い手袋が吸い込まれた。
右手で髪を弄りながら、彼女は再び冷たい顔をする。
その表情が嘘だと……僕には判ってしまったけれど……


「後には退けない。私は一番になるために色んなものを犠牲にした。だから、大好きな歌も犠牲にした」


僕は言葉に詰まった。
何を言ったら彼女を救えるのだろうか。何で彼女を救えるのだろうか。
僕の手のひらに汗がじっとりと纏わり付く。
抱えている本を、落としそうになる、嫌なぬめり。
溢れて零れそうになる感情の波を堪えながら、僕は彼女を見据えていた。

好きな事をするために、好きなものを犠牲にすると言う矛盾。
好きな事なら頑張れた。
好きな事のために頑張れた。
でもそれは多大なるものを犠牲にして、巻き込んで、壊してしまった。
大好きだった歌も、その犠牲の一つになって――泡となって消えた。

僕には、好きなものを犠牲にすると言う苦痛が判らないけれど。
ただ一つ判る。
彼女は《犠牲にしてはいけないものを犠牲にしてしまった》のだ。

僕を見詰める彼女の顔に、別の色が注ぎ込まれる。
諦め、落胆、軽蔑――負の感情を身に纏った色。
暗くて、底の知れない、嘆きのような表情で。
彼女は言う。


「のし上がって判った。もう戻れない。犠牲にしすぎたから。でも、これからも犠牲にし続けなければ、終わってしまう」

「でも、犠牲にしなくて良い方法だってあった」

「知らない」


ぴしゃりと言い切る。
でも僕には判っていた。
彼女の表情の中に《苦しみ》が込められている事を。
罪に問われているのだ、自分が犯した罪に対する罰が降って来ているのだ。

僕には判る――同じだから。
僕だって、罪に問われているのだから。
共鳴する、感覚。


「君は罪に問われてるはずだよ」

「……」

「苦しんでるんだろう?」


好きなものを犠牲にし続けなければならない、それが彼女に与えられた罰。
それが彼女が認めなければならない罪に対する罰、具現化した姿。

僕には最初、確信なんてものなかった。
七割ハッタリで、残りがヴェンデルの言葉。
でも、僕の言葉がハッタリから確信に変わったのだ。

立ち尽くしているエリスは、罰せられている。
彼女は自分の罪が判らないから、何も出来ずに苦しんでいるはずだ。

彼女は下唇を噛み締めて、言葉に詰まっていた。
目線が宙を彷徨い、正しい言葉と態度を紡ぎ出そうとしている。
しかしそれは出来ないようで――何も言う事なく、最終的に僕を見詰めた。
その顔をイエスと受け取り、僕は自分の左手で、右手の手のひらを指し示す。
罪の印、烙印、僕らが生きている証。


「君、《蝶の痣》があるんじゃないか?」

「――……」

「例えば、その手袋で隠してる、右手の……手のひらとかに」


彼女の顔が変わった。
殺伐としていた鋭さを失い、唖然とした気配が零れ落ちた。
そして、もう一つ零れ落ちた――落胆。

エリスは苦しい表情をしながら、その白い手袋から、もっと白い手をするりと差し出した。
布擦れの音がして、白い手袋から立体さが消える。
彼女はその手袋を脱ぎ捨てるように、宙に放った。
風がそれを運ぶ、ゆらゆらと、生きているかのように、それは飛んだ。

彼女の傷もない、綺麗な指先を得た左右の手の甲。
そしてそれを、彼女は翻す。

右手の手のひらに、迸るように刻まれた、赤黒い斑。
焼き付いたような焦げたような、グロテスクなその痣は、翅を伸ばした蝶のように見えた。
嘲笑うようにしてしがみ付くこの痣こそが《罪の象徴》。


「なぜ判ったの」

「罪に問われてる人間には、それが浮かび上がるんだ」と、ヴェンデルが言っていた。

「一ヶ月前から、徐々に広がっていった。何をしても消えない」


罪が償われるまで消えない痣。消せない罪の象徴。
刻み込まれてから、苦痛が圧し掛かる。
何をしても晴れない心、何をしても出来ない苦痛。

そんなもの――


「僕だって持ってるよ、その痣」

「え?」


手にしていた本を放り投げて、彼女に見せ付けるようにして両手を差し出した。
白に包まれた僕の両手。
数え切れないほどの罪が、この両の腕に刻み込まれている。

僕は包帯を無理矢理剥がして、素肌を風に晒した。
刹那、彼女の口から、はっと息を呑むような小さな悲鳴が聞こえる。

僕の罪。僕の罰。《雨忘れの刑》。
両腕に犇くように飛び交う無数の蝶。
けたたましい笑い声がする、蝶のざわめく声がする。
赤黒い痣が無数に刻まれたその腕を、エリスは口元を押さえて見詰めていた。


「僕は、これでもある程度赦された。君も、こうなる前に赦された方が良いよ」

「消えない、この痣……全然、何をしても消えない」震えるような声色、実際、彼女は震えている。

「消せるよ」


あの時僕は手遅れに近かったけれど、蝶に赦されている。
僕はあの時とても苦しかったけれど、僕を赦してくれた人がいる。

汚い外見、汚い言葉。
目障りな白髪を伸ばして、紫煙を吐く――男。


「はじめまして、僕は《赦し屋》のパシリ。今の名前はテッド」


彼女は蝶の班を抱き締めるようにしながら、崩れ落ちた。
赦される事が嬉しかったのか、解放される事が見えたからか、それとも得体の知れない男に世話になるのが嫌だったのか。
そんな事判らないけれど、エリスは小さな声で――

確かに「助けて」と言っていた。





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